内界と外界の一致ということで思い出したことがあります。
自分がグラマーに覆われていると、
自覚することは普通はありません。
有名な話に、
ヴィクトリア朝時代のロンドンっ子は、
自分たちが霧の中にいることに気がつかなかったと言われています。
エリザベス朝時代になって、
世界の空を知り、
テームズ川から沸き立つ靄で、
ロンドン市が覆われている自分たちの特殊な空に気づきました。
ロンドンっ子はそれまでは、
世界中が自分たちと同じ空を見ていると思っていました。
先日アンタ-カラナのイメージについてお話しましたが、
この建造に取り組む十年ほど前に、
私は子供のことで悩んでいました。
家庭内暴力をする息子のことで、
或る心理療法士のカウンセリングを夫婦で受けていました。
その療法士の勧めで、
療法士が師と仰ぐ方が主催する二泊三日の研修会に参加しました。
研修会は愛知県と静岡県の県境にある茶臼山で行われました。
最初の日の夜に肝試しが行われ、
私たち夫婦は山の中腹の灌木の繁みの中にある
小さな祠に置かれている石を持ち帰るという課題がだされました。
当日の夜、山全体が靄に覆われている上に、
祠までの道は灌木に囲まれていて
カンテラの明かりを頼りに薄暗い細い道を辿って行きます。
その時フト気づいたのです。
私たちは日光に照らされた明るい世界を見ている時には、
誰もが自分と同じものを見ていると考えています。
どの方向を向いて人生を生きて行けばよいかについては、
人それぞれによって異なり、
目的地が違っているかも知れません。
人生の目的地は明瞭に見えず、
私たちは手探りで進んでいます。
誰もが自分と同じものを見ていて、
自分と同じように考えている、
という考え方は、グラマーに覆われていて、
靄に覆われた山の灌木の森にいる自分たちの状況そのものでした。
私たちの普段の考え方は、
外界の景色が映し出しているのだと気づきました。
つまりグラマーに覆われている内界の状態を
外界の景色が私たちに教えていました。
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