主マイトレーヤが私たち人類を平等に愛されている、ということは疑いがないが、それでも主の降臨・つまり偉大なる存在が目に見えない世界から見えざる手で、人々を手助けしているのではないかということを信ずることができない人々が存在することも事実である。唯物科学的想念に凝り固まっている人々がそのような人々である。霊的事柄に関心を持たず、自分は偶然に生まれた者という考え方を持つ。主は人々を分け隔てのある愛で支援することはない、このことを疑う気持ちはありませんが、主が霊的存在を全く存在しない人を見えざる世界から援助しても、そのような人は単に運がよかったと思うにちがいない。偉大なる存在の支援に気づき、その力を自分や周囲の人々を守ってくれるように積極的に祈ったりはしない。主の降臨の事実と見えざる世界から人々を支援していることに気づき、そのことを知って人々に広報しようとしている人々は主の支援があれば感謝の気持ちが湧いてくる。私が述べたいことは、主の存在を信ずることのない人々よりも、主の存在を広報する仕事をしている人々を支援する方が理に叶っているということです。 私の友人はしばしば”○○(私の名前)さんは恵まれている“と私に言う。確かに私自身でも様々な面で、覚者方の支援を感ずる。同じような難病を患っている人達と比較して、恵まれた条件で生活できているような気がしています。主は分け隔てなく、私たちを愛しているのは間違いないが、世間のように、ギヴ・アンド・テイクの理が存在している。
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