やがて、空が白んでくると、ホール正面の大きな鐘が打ち鳴らされる。それを合図に全員がオームを唱える。このとき、たしかにホール全体があるエネルギーが満たされる。一体どのようなエネルギーが注がれているのか。
これは大いなる儀式であると前にのべたが、その儀式の意味は明確に理解できているわけではないが、たぶん、それによって何千人という人たちの感情体(アストラル体)、知性体(メンタル体)(注22)が浄化されるのだろう。
やがて、録音された音楽がスピーカーから流される。ものういような、悲しげなメロディーであることも、陽気に踊りたくなるようなメロディーのこともある。インドのヴィーナ(注23)とシタール(注24)による演奏であることが多いが、バイオリンとフルートによる西洋の音楽であることもある。様々なメロディーが、そのときの状況に応じて使われるようだ。
スピーカーから音楽が流されると、人々の頭が一斉に同じ方向に動く。遠くの方で、鮮やかなオレンジ色の人影が動くと、その動いた方向に、並んで座っている人たちの頭の動きが波のようにホールに伝わっていく。人々は一瞬たりとも目を放すことはない。インドの人たちはほとんど立ち上がらんばかりである。それをセバの人たちが「サイラム」と言って制する。彼らはサイババのオーラ(注25)の輝きを見ているのか、しきりに両手を目の前に差し出して、サイババから放射されている光を自分の頭頂センターへと入れようと手を扇ぐように動かしている。光は手であおいで動かせるようなものではないのだが。
飯島先生は合掌したままである。私も真似をして合掌してサイババの方をじっと見るが、いかんせん私の目は近視と遠視と乱視が入り乱れているので、お姿をはっきりとは見ることができない。サイババはホール左翼の、つまりホールの東側部分の女性たちの前を通ると、昨日のように男性陣の方に近づいてくることなく、そのままスーッとインタビュールームに入ってしまわれた。
しばらくすると、スピーカーの音楽がぴたりとやんでしまった。どこからともなくタメイキがもれていた。やがて、人々は席を立った。飯島先生はしばらく座ったままじっとしておられる。
出口に向かってぞろぞろと歩いているとき、山内さんとパウロさんの、ややがっかりした表情にでくわした。長い間待って、サイババの姿を目にするのはほんの一瞬である。無言のまま、私たちはホールを出た。
少年を預かっていたが、少年は迷うこともなく、自信ありげに行動していたので、私たちは安心して、彼を一人で帰らせることにした。
三日目の朝(4)
2010年08月20日 · コメント(0) · 未分類
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