奉仕の瞑想について
奉仕の瞑想を、
個人的な問題解決の道具と見なしてはいけません。
瞑想は、どのようなものでも
個人のパーソナリティ意識から解放されて、
魂との接触を意図して始められるものです。
他から強制されてやるものでもありません。
奉仕の瞑想には、多くの犠牲が伴います。
個人的問題を抱えている上に、
その犠牲を強いられるとしたら、
あなたの感情体は
たまったものではありません。
世間一般の常識的観点から見ると、
犠牲をしつつ奉仕の瞑想する人々は、
霊的マゾヒストと言えるかもしれません。
なぜなら、彼らはその犠牲を喜々として行うのですから。
ところで、感情体が激しく波打つような体験を
私は、あまりしたことがありませんが、
想像するに、
敏感な感情体を持つ人は、
社会の不正義に対して激しい怒りを覚えるかもしれません。
単に自分が一番かわいいために、
隣人に対する怒りを覚える人もいるでしようね。
しかし、怒りのエネルギーは、
チャンスです。
そのエネルギーをうまく導くことによって、
自分の周囲に作ってしまった固定観念の殻を破ることができます。
具体的なことは言えませんが、
ご自分で考えてみてください。
奉仕の瞑想について
2011年06月18日 · コメント(0) · 未分類
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