秘教日記

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新しい時代に人は大いなる目的を持つ。人類がイニシエーションの 道を発見し、それを辿ることになるということを、ハイラーキーは 予言しています。エベレスト登頂を成し遂げた人々が出現したことは、 ハイラーキーの予言が正しく実現される証しです。世界最高峰登頂の 出来事は、イニシエーション達成の予兆となっています。

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「求めよ、さらば与えられん」について

2011年12月12日 · コメント(1) · 未分類

「求めよ、さらば与えられん」について

私は毎朝ブログを書いています。
今日は、何のテーマについて書こうかなと考えていると、
たいていは何らかのテーマが見つかるものですが、
何も見つからない日もあります。
 
今日がまさにその日です。
 
それである方にメールで述べたことを、
このブログ用にお借りして述べたいと思います。
それは個人的なことではありません。
 
先日ゲイリー・レナード氏の
「不死というあなたの現実」という本のことを述べましたが、
その中にイエスが当時に語ったままの言葉、
つまり、福音書を筆記した後の世の人々や教会によって
変更がなされない元の言葉を引用しました。
 
それは、聖書の中の
「求めよ、さらば与えられん」(マタイ7:7)という
聖書の言葉の元になったと考えられる言葉です。
 
この聖書の句は、
たぶんイエスの
「求める者は見つける。叩く者に、扉は開かれる」
という言葉から作られていると思われます。
 
微妙に違います。
イエスは「与えられる」とは述べていません。
「見つける」と述べています。
マタイの福音書では、
「扉があけてもらえる」となっていますが、
イエスは単に「開かれる」とだけ述べています。
 
これらの違いは何を物語るのでしょう。
他力本願的な要素よりも、
自力本願的な要素の必要性が
はっきりと述べられているではありませんか?
 
「人事を尽くして、天命を待つ」
という姿勢こそが必要で、
ただ待っていれば、
神が救ってくれるという消極的な姿勢ではありません。
 
しかし、過度の自己中心的意識によって、
自分が何事かをもたらすことができると考えて
苦闘して消耗する弟子に対しては、
その自己中心的な意識から離れるためには
ハイラーキーにとっては
個人よりもグループ全体が重要であり、
個人の問題には関心を持たない
ということを知る必要があります。

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