個人における統一について
昨日瞑想を終わって、
会館を出るとき、
受付の人が
「今日は暖かかったので、
暖房はいれませんでしたが、
統一はうまくできましたか?」
と尋ねてくださいました。
瞑想は統一が課題となっているということが
人々には知られていることを知りました。
これまで統合のテーマで何回か、
ブログを書きました。
高校野球でも、
サッカーでも、
バレーボールでも、
団体競技の試合が始まる前には、
全員で輪を作って、
奇声をあげて全員の意志統一を図る
ということはおなじみの情景です。
スポーツの世界では、
各メンバーの意志の統一が
勝敗に大きくかかわっていることが
認められているということです。
個人の中で統一ということが
大切だという認識は、
瞑想を何年もやっているような人でなければ、
本当には認識できないことです。
それと言うのも、
たいていの人々は、
体が自分であるという認識が普通で、
形態は本当の自分ではなく、
真の自分は形態(メンタル体、アストラル体、肉体)を乗り物としている存在、
つまり魂(さらには、主が言われるように真我)
であるという認識にいたるのは、
第一イニシエーションを通過している
限られた人々だからです。
第一イニシエーションを通過後、
人は対となった相対立する二つのものの世界を経験します。
それがバガヴァッド・ギーターに描かれている
アルジュナのクルクシェートラを戦場とする戦いです。
そしてアルジュナには、
アストラル体と魂の統一が一番のテーマとなります。
個人における統一について
2012年04月15日 · コメント(0) · 未分類
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