無為自然という言葉を表面的に受け取る方は、
無為無策の意味、「何もしないこと」である、
と受け取るかもしれないと私は心配しました。
老子の説く無為自然の意味は、
そうではありません。
老子の教えを深く研究している人は、
老子の「無為」は「なにもしないでいること」ではないと言います。
詳しく説明します。
「老子でいう『無為』は、
意図や意思、主観をすべて捨て去って、
『道』(天地自然の働き)に身を任せて生きる
ありようを意味しているといえます。
『老子』はこの「無為自然」を理想のあり方としました。
(http://textview.jp/post/culture/8081)から引用。
この中の説明で、
(パーソナリティーの)
「意図や意思、主観をすべて捨て去って、
天地自然の働きに身を任せて生きる」というありようは、
感性がマヒしている人には難しいことです。
老子の説く「無為自然」は、自然の運行を敏感に感知し、
自然の営みを補助するように、
私たち人間が活動することを言います。
だから、大自然の中で自然の息吹を感じ、
自然の厳しさに立ち向かう冒険家の感性は、
マヒした感性を蘇らせるのに適しています。
知性的であることを追い求めるうちに、
私たちは感性をマヒさせたのかもしれません。
老子の無為自然という言葉の説明をよむと、
感性は魂意識に属する感じがします。
クリシュナムルティは、
その感性を取り戻すことを、
私たちに訴えていたのかもしれません。
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