殺された被害者の多くが、
自殺願望を抱いていて、
ケイタイ電話の掲示板サイトを通して、
白石容疑者と接触し殺害されたと伝えられていました。
ところが、供述調書によると、
本当に死ぬ気の人はいなかった、と白石は語っていた。
事件の報道を聞くうちに、
私は次のように思いました。
”物質は豊かにあふれているのに、
愛に飢えている若い人が多いということかもしれない。”
「死にたい」という、
本当とは言えない気持ちを持つことになった、
被害者たちが愛の貧困者であった、と。
愛の貧困も食糧の貧困と同じく、
社会の問題として捉えるべきではないでしょうか?
以前に霊的飢餓というタイトルの記事をかきました。
肉体が食糧の飢餓を覚えるように、
霊体も飢餓をおぼえますが、
そのことはあまり理解されていません。
情緒体の糧となる愛を見つけることができず、
若い人々は情緒体の飢餓を経験している。
「分かち合い」の原理が普及すれば、
愛に飢えるということはなくなるのに。
”おお、弟子よ。・・・悩める巡礼者に、
慰安の光を恵め。
汝よりも知識に乏しき者を求めて、教えよ。
智恵のパンに飢えて悲しき孤独を悩む者を求めて、
智恵のパンを恵め。
教師もなく、 希望もなく、 慰安もなく、
影のパンに養わるる者を求めて、 大法を聞かしめよ。”
(ブラヴァツキー著/三浦関造訳/竜王文庫)
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