このタイトルは、
太宰治のよく知られた小説の題名です。
”坊主失格”という題名の、
小池龍之介氏の作品は”人間失格”という題名に、
なぞらえたものです。
二つの作品のいずれも、
心にもなく本心とは裏腹の、
偽我の考えを表現し、相手の歓心を買おうとする姿を、
告白するという趣旨の物語です。
私たちは、相手の歓心を買うために
しばしば本心にはない、偽りのことを相手に告げる。
処世術として、
身につけているかもしれません。
太宰治も小池氏も自分を偽ることを、
”~失格”と断罪しています。
なぜ、自分を偽ることが、
”~失格”という判定されるのだろうか?
英語で、人のことを、”Man”とよぶのは、
マインドの発達が、動物界の頂点に立つ存在だから、
とういうようなことを
ブラヴァツキーが”シークレット・ドクトリン”の中で
述べています。
人が動物のなかで、
一番マインドが発達しているはずですが、
中には犬やサルなどの知能的に優れた動物よりも、
劣っているのではないかと、
思われる人も存在するようです。
マイトレーヤが、”心(マインドとハート)に正直に”
という教えをこの時期に、
前面に打ち出しているのも頷けます。
マインドの正しい発達こそが、
人が人たる所以であることは、
ブラヴァツキーはじめ、多くの人が認めています。
現在、世間の事件の多くは、
嘘や偽りごとが根本の原因となっているものばかりです。
昨日のブログに、
マイトレーヤの”裂開の剣”をとりあげました。
”本心を偽る”ことの重大さを認識する
必要を訴えたかったからです。
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