”主よ、私たちはいつまで待てばいいですか?”
という叫びが聞こえてくる。
世界の悲惨な状況に心を痛める人々の、
悲痛な叫びだ。
しかし、主は既に物質界に姿を現して、
菩薩行をしていて、
公けにその仕事ができる機会を待っている、
ことを私たちは知っている。
BCが日本にメッセージを携えて訪れた当初の頃、
マイトレーヤの”大宣言”は明日にでもあるという、
ことを伝えていました。
私が興奮気味に、
”マスコミ関係者に連絡しておいた方がいい”
と提案して、BCを促そうとすると、
私の性急ではやる気持ちは、
BCの協働者ISに制せられた。
話しは変わって、
サミュエル・ベケットの前衛演劇の作品に、
「ゴドーを待ちながら」というのがあります。
登場人物は、
偉そうにしているポゾーと、
首輪をつけられて犬のように支配されている、
使用人のラッキーの二人だけです。
前衛演劇だけあって、
この作品は象徴に満ちています。
ゴドーと呼ばれている人は、
どうやらキリストの再臨のことを伺わせます。
ポゾーという登場人物は、
ラッキーを犬のようにロープでつなぎ、
大袈裟な身振りで荘厳さを演出する演技から、
前時代的なキリスト教会の、
権威主義的な支配組織を暗示する。
私の個人的な解釈ですが。
一方使用人のラッキーは、
その名前から今はポゾーの奴隷のようになっているが、
逆転した生涯を迎えることを匂わせます。
実際、演劇の中でポゾーは首輪とロープで、
ラッキーの奴隷のようになります。
劇の終わりの場面は、
ゴドーは遂に現れず、
ポゾーとラッキーは劇の最初と同じ姿勢で
幕が下ろされる。
私の個人的解釈では、
”私たちの意識の中に、
人を支配し支配される意識がある限り、
キリストの再臨に巡り会うことはできない”
というものです。
再び、話しは変わって、
BCは過去と未来という時間区分を無くすことを、
私たちに提案したことがある。
これに関してこんなことを思い出す。
ある時、私のヨガの先生が、
”大宣言は既にあったよ”と言われた。
怪訝な気持ちでいる私に、
次のように話された。
”物質界での大イベントとしての、
大宣言をもたらそうと、奮闘する人にとっては、
未來の出来事:大宣言という目標を掲げて、
前進しようと決意した時点が、
既に大宣言だ”と。
何もせず、ただ待つ人には、
永遠に大宣言に巡り会うことはないだろう。
水瓶座の時代に愛にめざめて、
主の愛の働きの手助けをする人は、
イニシエーションの道をキリスト治世の千年の間に
登攀する。
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