マインドが正しく育成されているなら、
自分が偽っているか、そうでないかは即座に分かる。
即ち、偽我の自分であるか、
真我につながっているかが。
正直に生きようとする人は、
自分の心に偽りのあることが悩みの種となり、
長くそのことを持ち続けると、
偽りの種はいつか爆発する地雷のようになることを知る。
そのため、
古来、キリスト教では懺悔所又は告白部屋が作られいて、
信者は神父(又は牧師)に、
真我を裏切る自分のよこしまな思いを告白して、
偽我の種を吐き出していた。
古代ギリシャの劇場で上演される悲劇は、
人々の偽りの種を無くそうとするカタルシスの役目でした。
ところで、
アリストテレスの「告白録」を初め、
多くの先人たちが、
偽我に属すると思われる自分の隠したい部分;
恥ずかしい部分を描いています。
太宰治の「人間失格」;森鴎外の「ヰタ・セクスアリス」;
三島由紀夫の最晩年の長編小説「豊饒の海」シリーズは、
作家が偽我の部分に苦しみ、それを告白することで、
カタルシスの役目を果たしていたことがわかります。
二千年前に、
イエス・キリストは言いました。
”情欲をいだいて女を見る者は、
心の中ですでに姦淫をしたのである”(マタイ伝5:28)
と。
私たちはマインドを正しく発達させるために、
上記のことばを重く受け止めよう。
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