コロナウィルスで志村けんが死んでしまった。コロナウィルスの恐ろしさが痛感される。入院からわずかの日数で重症化して死亡した。ニュースで持ち切りである。死に対する私たちの考え方は昔も今も変わっていない。死は忌むべきもの。避けるべきもの。怖れるべきもの。
この感染症の蔓延が全世界に混乱をもたらしている。肉体の死は恐ろしい。それだけでなく、経済的混乱をもたらして社会はあらゆる面で、停滞する。この状況を未開文明の人々や歴史上の古い時代の人々なら神の怒りを買っているとして、例えば、奈良時代の天皇は大仏を開眼供養し、仏教の流布に務めた。唯物科学が隆盛している現在では、医療技術も発達しているから衛生面と医薬品の開発で、現在の混乱の終息が図られるだろう。しかし、私はそれで安心できるかと言えば、安心できない。根本原因が明らかにされていないからである。それを追究しようとする動きさえない。
霊的情報をもたらしていたBCは早くから感染症のこと、免疫システムの弱体化を指摘していたが、世界中の国のリーダーたちは、耳を傾けなかった。BCの情報を科学的に実証できないからである。具体的には、経済優先で智者である覚者の言に耳を傾けず、真の人間らしさとは何かについて、疎かにしていると言わざるを得ない。
今後コロナウィルスの感染症が終息できたとしても、唯物科学と心霊科学の統合、つまり言い変えると、物質面と精神面、肉体と魂、などのバランスがとれたものとならないかぎり、新たなウイルスが跋扈することになるかもしれない。
新型コロナウィルスについて(霊的視点から)
2020年04月01日 · コメント(0) · 日記
タグ : 死
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