以前に人格の意志と魂の意志という言葉を使ったので、この二つの言葉について、解説したい。
19世紀のロシアの神秘家ブラバツキーは、 「シークレット・ドクトリン」の中で、バカバット・ギータの中の次の文を解説している。
「永遠不滅の魂である我は誕生することなく、諸存在の主であるが、我の上位にある、真我が私の性質に対してなすごとく、魂の魔術的な力を通して、物質界に顕現する」(ギータ、第6巻の6)
バカバット・ギータは、インドのヒンズー哲学の根本経典となっているが、秘教哲学の根本経典ともなっている。
魂は、肉体即ちパーソナリティを乗り舟として、物質界で経験を積む。魂もまた真我、即ち、神の閃光である真我の乗り舟である。
魂意識を自覚する人は、高く進化したイニシェートたちであると示される。私たちは、一般にはパーソナリティの意識を持ち、私たちが魂意識を持つことは、非常に困難な状況に遭遇したときなどのまれな場合であると示されている。物質界の経験は徐々に魂意識を培っていくと説明されている。だから、普段はパーソナリティの意識である。魂意識への志向が目覚めて、初めて人は瞑想を開始すると。
ここで述べられているごとく、私たちはすべて、神の閃光であり、宗教団体が「神の子」と述べている通りである。ブラバツキーは、私たちは「生まれ出ずる神」であると述べている。
死に際しては、パーソナリティの意識は魂意識に席をゆずり、一瞬にしてこれまでの生涯に思ったこと、行ってきたことを思い出し、そこから得られる知恵をエッセンスとして記録すると説明されている。
人格意志と神聖意志
2010年07月21日 · コメント(0) · 未分類
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