贖罪の意味について
キリスト教会では、
懺悔という行いが行事となっていて
キリスト教信者は、
教会内に設けられている
小さな懺悔室の中に入って、
牧師さんや司祭に
自分が犯したと感じている罪を告白します。
牧師さんや司祭は、
決してその告白を他言しません。
だから信者さんは、
安心して告白できます。
この懺悔という方法は、
エゴの持つ罪悪感から魂が解放され
病気を予防する
優れた手法であると思います。
ルソーの告白録を初め、
多くの作家がこの手法を用いて、
作品を書いていることは、
それが魂の解放と無関係ではなかった
ということではないでしょうか?
懺悔または告白がなされずに、
秘密という形で
エゴの罪意識を保持し続けていると、
そのエネルギーは
凝縮されて閉じ込められた爆薬のように、
強い力で諸体に影響を与え、
最終的に肉体に病気として結果が現れます。
肉体に結果が現れることは、
ある意味、よいことです。
肉体に結果が現れていない
エゴの分離思想は、
最終的には生命エネルギーを
粉々にしてしまいます。
マイトレーヤは、
分かち合いかそれとも分離の道か、
二つに一つの道の選択を人類に迫っています。
次回は、肉体の病気という障害の意味について考えます。
贖罪の意味について
2011年12月14日 · コメント(0) · 未分類
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