私はクリスチャンではありませんが、
日曜日に礼拝に参加しました。
キリスト教会の現状が、
どのようなものか知りたいという下心があったからです。
かつて静岡の友人に連れられて、
うんもすんもなく、
ミサに参加させられたことがあります。
その時は、
信仰のために、輸血を拒否することで、
世間を騒がせていた宗教団体のミサでした。
キリスト教のどの宗派であろうと、
私自身、違和感を感じることはありません。
日曜日の礼拝では、
会衆同志を兄弟・姉妹と呼び、
同胞の願いが叶うように、
日常的に神にお祈りをしていると知って驚きました。
教会の人たちは、
祈りが普通で日常的になっている、
と思いました。
自分には他の人にはない祈りの力が特別にあると、
権威とか権力を意識するようになると、
その祈りの力は引っ込められるかもしれません。
話は変わって、
イエス・キリストの磔刑を、
キリスト教会がどのように捉えているのでしょうか?
私が訪れた教会の牧師さんは次のように説教しました。
”イエス・キリストは、私たち人類の罪を贖うために、
身代わりとなって、磔となった”
それゆえ私たちは、悔い改めによって、
神に許される、という解釈です。
人類の罪と言えば、
権力を保持しようと画策することが
人類の罪と言えるかもしれません。
自分たちの権力を維持しようとする考えに凝り固まっていた、
パリサイ人やサドカイ人が
イエス・キリストを磔刑に追いやったのです。
権威と権力に執着し、結晶化することが、
私たち人類の共通の罪と言えます。
Raymundo // 2017年03月28日 8:19 AM
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