昨日信念についての記事を書きましたが、
これについて思い出すことがあります。
BCが初めて日本にやってきた今から34年前、
私たちはBCと面談し、その時BCは大切な心構えとして、
”信(beliefではなくfaith”です)という話をされた。
当時の世の潮流は唯物科学全盛で、
信仰という言葉は、宗教的なものを感じさせるためか、
その言葉を意図的に避けたものと私は理解して聴いていた。
BCは英語で話し、
ISの通訳を介した話しでした。
唯物科学全盛の世では、
”信仰”という言葉はほとんど”盲信”と同義である。
私の個人的意見ですが、
盲信も使い方によっては役立つ。
”ブラシーボ効果”について考えてみてください。
目に見える物だけが信ずるに足るという風潮があり、
宗教の暗黒時代では、
”愚かで自信のない心の弱い者の拠り所”
という意味に捉えられるかもしれない。
私たちのメンタルの信念に基づく創造的想像力は、
二千年前にイエス・キリストが、
人類の父である神の遺産そのものであることを示している。
聖書には信仰ということば頻繁に出て来る。
だから、信仰ということばを聞いただけで、
耳をふさいでしまう人々が多い。
秘教科学は、イエスの教え:””もし、
からし種一粒ほどの信仰があるなら、
この山にむかって『ここからあそこに移れ』と言えば、
移るであろう”の意味を深く追求する。
その後、ヨガの師匠が、
次のような話しを私にしました。
”メンタル界のちっぽけな想念は、
相手に届く時には、
巨大な像となって届く”と。
BCの”信”についての話しは、
私たちにその奥深さ”を伝えようとしたものでした。
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