後に、公立病院で看護婦となっていた姪にそのことを話したが、姪はただ笑って「公立の病院で、そのようなことはありえない」と言っていた。
手術の当日、子供たちは見舞いにも来てくれなかった。家内だけが、私の手術にカメラを持って立ち会ってくれた。切除した癌を写真にとっておいてくれと私が頼んでおいたからである。
移動式ベッドに載せられて、手術室に行くあいだに、私は口に笑気ガスのマスクを当てられて、手術台に乗った時には、ほとんど意識を失っていた。頭上のUFOのような照明器具が見えたことだけを記憶している。
「すずきさん、すずきさん・・・」。どこか遠くで声がする。
軽く頬を平手で叩く看護婦さんの声で目が覚めた。天井は、照明器具ではなく、病室のものだった。家内が傍らに立っていた。カメラが脇においてあった。家内の話では、切り取られた腸は、ホルモンと称して肉屋さんで売られている牛の内臓のようであった。そして、執刀医の話では、腫瘍は直径一センチ程であるが、リンパへの転移の恐れもあるので、腫瘍を含む十二センチの長さの腸が切り取られたということであった。私の腸は通常よりもやや長めであるので、問題はない、という。ベッドの脇には点滴器具がおいてあり、私の左腕の中央と管で繋がっていた。パジャマをはだけて、傷口の上にかぶせてあったガーゼが取られたとき、手術跡を見てみた。へその上あたりから下腹部までバッサリと切れ目があって、ところどころXの字の形に糸でぬってあった。腹の皮膚の右側と左側では五ミリ程の段違いができていた。急いで手術したのか、もともと粗雑な縫い合わせしかできない執刀医なのかわからないが、この段違いがとれるのに何箇月かかるのかなあ、という思いがよぎった。
二、三日して、腫瘍が悪性であるか、良性であるかの判定がガンセンターから送られてきたということで、診察室に呼ばれて、「悪性でした」と告げられた。手術して正解だったと考えるべきか。良性なら手術せずに、治療するほうが、負担が少なくてすむ。
点滴で栄養を与えられているせいで、空腹感を持つことはほとんどなかったが、数日すると、少しは固形物を口にしたくなる。若い時に盲腸を手術したが、その時病院からオナラがでたら食べてもよい、ということを告げられていた。この時も多分同じで、毎朝体温と血圧を測りにくる看護婦さんに、私はオナラがでたことを告げた。翌朝からお粥が用意された。しかし、しばらくは点滴が取り払われることはなかった。一日目は四部粥ぐらいのシャビシャビのお粥だった。次は六分粥、八分粥と次第に米が多くなっていった。
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