この頃の私は、息子の住む家と我々が住むアパートと仕事場のかけもちの生活を支えていた。早朝、ラジオの深夜便を聞きながら、息子の所へ食事を運ぶ。音を立てないよう、朝食の準備をし、弁当を詰め、食卓を整え、洗濯物を持ちかえる。次に夫と娘の食事を済ませ、弁当を持たせ、見送る。その足で私は職場へ自転車で出掛けた。昼休みの時間に帰宅し洗濯を済ませ(夜間の洗濯は隣家から苦情がでるので)仕事場へ戻る。三時半、帰宅。買物。夕食の準備と慌ただしく済ませる。息子が下校する前に、夕食の膳を用意し逃げ帰ってきた。アバートに戻るとすぐに夫と娘の食事の用意と続く。家の仕事も山のようにあり自分の時間は皆無だった。季節のうつろいも周りの風景も目に入ってこなかった。澄み渡る青空に枝を広げ、群れ咲く桜さえも。目にする花は、灰色の道路の端に散り敷かれた花びらであり、花びらが散ってしまった後のシベのエンジ色が映るばかり。睡眠も二、三時間、それも仮眠程度。そのためか運転中に前方の信号が青だと確認した瞬間、気が遠のき、どれほど走行したのだろうか、ドカンという音で目覚めた時は、反対斜線の縁石にタイヤがぶつかっていた。前方にはタクシーが停車していた。危険な居眠り運転だった。体調の異変が起こっていた。それが臭覚から味覚へと移り、特に味覚が失われた。味がわからなくなり、息子に「こんなもの喰えるか!」と料理をぶつけられ、夫や娘も不味いのを我慢して食べていてくれたのだろう。失業、転職、入院、起こってくることすべてが、奈落の底へ落ちていくようで、歯止めがきかない。そんな中、先にも書いたように、息子に蹴飛ばされ肋骨三本骨折と尾骶骨にひびが入るアクシデントに見舞われ、私の行動全てがストップする状態となってしまった。一ケ月実家で静養中に、世話ができなくなり、さぞ皆が困っているだろうと、初めは頭を抱えていたが、私がいなくてもさして困る様子もなく、家庭内が廻っていくことに気付き、このことが後に福井県へ出て行く伏線になったのかもしれない。
コメント (0)
コメントはまだありません。