手術の日迄、退屈だから勉強道具と郵便物を自分が住んでいるアパートまで取りに行ってくれと頼まれ、福生市から千葉まで、夫と二人して行くことになる。アパートを見つけ中に入ると、湿気の多い乱雑な部屋で、時間に追われている様子がよく分かった。頼まれものを探し病院に戻り、郵便物を息子に渡しながら、開けたらと催促したが、意味ありげで開けようとしなかった。夫は当日帰宅したが、私はもう一泊し、入院手続きを済ませ帰宅した。息子は五日程で退院し、近くの病院へ外来で通うことになった。術後のリハビリはとても大切だと伝えたが、それもいい加減に済ませ、後に膝の痛みや関節の不具合を生じさせた。が、仕事も長期に休むことも出来ず、仕方のないことだと、完治するイメージをいつも描き、祈る毎日を送った。
平成十七年。息子からの電話で、「そちらへ行く。○○大学の夜間部へ通うことになった。手続きもあるので、一泊させてくれ」との連絡が入った。長い々々道のりを一歩一歩自分の歩幅で歩き続けて来たその息子の足跡は光輝いていると思えた。並みの努力ではなかっただろう。一人で生きて行くことの大変さを十分味わってきたことだろうと思う。「本当に御苦労さま、一休みしたら。」と言ってあげたいが、これから四年間、仕事と勉強を両立させて行くことで、君は鍛えられ逞しく、雑草の如く大地に根を張り、養分を蓄え、枝葉を茂らせ伸びていくことだろう。夢にまた一歩近づくことと思う。無理せず君らしく歩いて欲しい。
インド旅行では夫の思いがババ様に届き、お礼を伝えることもできた。息子の意識の変容は、光の力なくてはありえなかったことだろう。それに少しずつではあったが、親子で編み込んでいった再生の糸が光を放ちながら輪郭を整えていたものと思う。
あとがき
家内よ、ありがとう。苦難の経験すべてが、今となっては貴重な体験であったことを知る。私も家内とともに息子と娘に、そして家内にこの場をかりて感謝の意を伝えたい。
平成二十二年四月
完
コメント (0)
コメントはまだありません。